古代
白村江の戦 663年
8月、韓国西南部の白村江下流で唐・新羅軍と百済・日本軍との間で戦われた戦争。
660年、唐・新羅は連合して百済を攻め滅ぼしたが、鬼室福信(きしつふくしん)を中心とする百済復興軍は日本から王子豊璋(ほうしょう)をよびもどして王に確立。豊璋はのちに福信を斬殺したが、百済の故地に留まる唐将劉仁願(りゅうじんがん)は窮地に立たされ、唐の高宗に増援軍を要請した。これをうけて高宗が派遣した劉仁軌(じんき)を将軍とする水軍は、百済復興軍救援にむかった日本の水軍と白村江河口付近で船上戦を展開して壊滅させた。
一方、白村江の岸上では文武王に率いられた新羅軍に百済・日本軍が敗れた。この結果、百済復興の動きは崩壊し、豊璋王は高句麗に逃走。この戦は、東北アジアに唐を中心とする国際秩序を構築しようとする唐と、百済との暦年の友好関係をもとに百済を従属させたかたちで国際的地位を主張する日本の対戦であった。
敗戦の結果、4世紀依頼の日本と百済との連盟は消滅し、日本は朝鮮での足場を失うこととなった。その後、日本国内では対外防備用の山城が多く築かれ、また律令国家への歩みが本格化した。
藤原純友の乱(天慶の乱) 939年(天慶2年)~941年
西海の反乱事件。
承平海賊を平定した土着勲功者(備前の藤原文元、讃岐の藤原三辰ら)と国司との対立を背景とし、同じく勲功をあげたのち伊予に土着していた前伊予掾の藤原純友が、939年(天慶2)12月、備前介藤原子高に圧迫されていた文元の支援要請にこたえ、摂津須岐駅に子高を襲撃したことに始まる。
純友は平将門の乱に浮き足立つ政府に海賊平定の恩賞を要求、従五位下に叙されたが、文元は備前で濫行を継続し、三辰は讃岐介藤原国風を追放した。将門が敗れると政府は攻勢に転じ、讃岐・伊予での攻防で純友勢を撃破。追いつめられた純友は大宰府を攻略して挽回を期したが、政府軍との決戦に敗れ、941年6月、伊予で伊予警固使橘遠保に討たれた。
屋島合戦 1185年(文治元年)
2月19日、讃岐国屋島(高松市)で源義経と平家の間で行われた戦。
一の谷の戦の敗北後も、平家は屋島にあって、瀬戸内海の制海権を保持していた。追悼を命ぜられた義経は、2月18日未明、風雨をついて摂津の渡辺(大阪市)から阿波の勝浦に渡り、昼夜兼行で国境を越え、屋島を急襲。
不意をつかれた平家は敗北し、長門へ逃れる。
壇ノ浦合戦 1185年(文治元年)
3月、長門国赤間関壇ノ浦(下関市)で源氏と平家の間で行われた戦。
屋島の戦の敗北以後、平家は長門国彦島に拠った。一方、源義経は伊予の河野氏、熊野別当湛増らの水軍を加え、瀬戸内海の制海権をおさえつつ西進、源範頼の軍と合流し、壇ノ浦奥津にいたった。24日、源平両軍は壇ノ浦海上で開戦、激しい戦闘ののち源氏の勝利に決した。
平家は知盛以下一門の多くが戦死・入水し、安徳天皇も二位の尼(平清盛の妻)に抱かれ、三種の神器の宝剣とともに入水した。平宗盛らは捕らえられ、京都に送られた。
この一戦によって平家は滅亡する。








