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日本海戦史 - 近世

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近世


薩英戦争 1863年(文久3年)

生麦事件の賠償交渉不調によりおきた、1863年(文久3年)イギリス艦隊の鹿児島砲撃事件。

同年6月27日クーパー提督率いるイギリス艦隊7隻が代理公使クールらを乗せ鹿児島に遠征し、鹿児島藩に犯人の逮捕処罰・25000ポンドの賠償金を要求したが、交渉は不調に終わる。イギリス側は強硬手段を行使し、7月2日・3日の交戦で鹿児島城下を焼き全砲台を大破した。イギリス側も旗艦艦長や副長が即死、60余人が死傷の損害を被った。

鹿児島藩は9月28日から3回にわたり、横浜のイギリス公使館でニールと講和談判を行い、10月5日和議が設立。以後薩英関係は親密度を増やし、鹿児島藩は軍備などの近代化をすすめた。

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馬関戦争(四国連合艦隊下関砲撃事件) 1864年(元治元年)

1864年(元治元年)8月英・仏・蘭・米四国連合艦隊が萩藩砲台を攻撃した事件。

前年5月10日の攘夷期日に萩藩が下関海峡通航の外国艦船を砲撃し、その後下関海峡を封鎖したことに端を発する。64年オールコックが奔走し17隻の艦隊が下関に遠征、8月5日から攻撃を開始、3日間で砲台を破壊占拠した。7月の禁門の変に敗れていた萩藩は列国の圧倒的軍事力に屈服、講和条約が成立。9月22日幕府との間で賠償金300万ドルに関する協約が調印された。

下関海峡封鎖解除・瀬戸内海通行再開問題も解決し、こののち萩藩は開国論に転じ倒幕へむかう。賠償金は74年(明治7年)完済された。

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宮古湾海戦 1870年(明治2年)

旧徳川幕府軍が宮古湾の官軍艦隊を奇襲する。

榎本武揚を中心とする函館政府は、北上する明治新政府の艦隊が宮古湾に立ち寄ることを想定し、新撰組の土方歳三と隊長とする回天・蟠龍・高雄の三隻からなる艦隊を出動させ、同湾でストーンウォール号を奪い取る計画を実行した。

明治2年3月25日、蟠龍が荒波で遅れ、高雄が機関部の故障という事態の中で、土方歳三が搭乗する回天のみで宮古湾に突入する。しかしながら、新政府軍の所有するガットリング砲の前に艦長の甲賀源吾をはじめ50名以上の死者を出したことにより失敗に終わる。回天は、戦局の不利をみとり、函館港に向けて退去した。

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箱館沖海戦 1870年(明治2年)

新政府軍と函館の榎本武揚政権による戊辰戦争最後の戦

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