水軍

日本海戦史 - 近代

紹介 古代 中世 近世 近代

HOME > 水軍 > 日本海戦史 > 近代

近代


豊島沖海戦 1894年(明治27年)

1894年(明治27年)7月25日、日清戦争の戦端を開いた海戦。

日本連合艦隊の第一遊撃隊は京畿道西岸の豊島沖(ほうとうおき)で清国軍艦済遠・広乙に遭遇、砲火を交えて広乙を座礁・自滅させ、済遠を敗走させた。またこの海戦中、清国軍艦操江が清国兵を満載した高陞号を護送中であるのにも遭遇、操江を降伏させ、高陞号(こうしょうごう)を撃沈した。

この海戦で増援軍を失った清国軍は、成歓(せいかん)の戦で敗北した。

このページのトップに戻る


黄海海戦 1894年(明治27年)

9月17日、伊藤祐亨中将の日本連合艦隊12隻と丁汝昌提督の清国北洋艦隊12隻とが交戦した。

北洋艦隊は5隻を撃沈され、巨艦定遠・鎮遠も大破。日本は大破2隻のほかは被害軽微。黄海の制海権を日本が掌握し、平壌攻略とともに日清戦争の帰趨を決定づけた。

このページのトップに戻る


威海衛海戦 1894年(明治27年)

日清戦争で丁汝昌の率いる北洋艦隊と日本海軍との海戦

このページのトップに戻る


旅順口閉塞作戦 1904年(明治37年)

日本連合艦隊による旅順港の閉塞作戦

このページのトップに戻る


黄海海戦 1904年(明治37年)

1904年(明治37年)8月10日、旅順を脱出してウラジオストクの艦隊と合同しょうとするロシア太平洋艦隊に対し、東郷平八郎大将の日本連合艦隊主力がこれを阻止しようとした。

ロシア艦隊は数隻を撃破され、旅順に退去して以後再び出撃しなかった。

このページのトップに戻る


蔚山沖海戦 1904年(明治37年)

8月14日、日露戦争における海戦。

日本海軍第二艦隊(司令長官上村彦之丞中将)はロシアのウラジオ艦隊の出現を警戒していたが、補足できず国民の非難の声があがっていた。この日ようやく韓国慶尚南道蔚山沖にこれを捕らえ、砲戦の結果一隻を撃沈。
二隻を大破した。

このページのトップに戻る


日本海海戦 1905年(明治38年)

5月27日・28日の日露戦争での最大の海戦。

前年10月バルト海のリバウ港を出発したバルチック艦隊(ロジェストウェンスキー司令長官)は、1万8000カイリを遠征して5月27日対馬海峡に達した。
日本連合艦隊(東郷平八郎司令長官)はロシア艦隊の進路を対馬海峡と想定していたが的中、二日間の激しい砲撃戦の末ロシア艦隊に潰滅的な打撃を与えた。ロシア艦隊38隻のうちウラジオストクに入ったのは4隻であった。

ロシア艦隊は長途の遠征に補給・士気の面で苦しめられ、日本艦隊は訓練豊富で優勢であった。この海峡での日本の圧倒的勝利が講和問題を具体化させた。

このページのトップに戻る