能島村上水軍の海将
村上武吉(たけよし)
1532年~1604年(天文元年~慶長9年)
能島村上氏の五代目当主。
能島村上氏は、瀬戸内海最大の海賊衆・村上三流の一つで、本拠・伊予能島をはじめ周防上関にも一族を配し、讃岐塩飽にも支配を及ぼしていた。
伊予守護・河野氏の家臣であるとともに、大友氏・細川氏・三好氏ととも交渉を持っていた。
武吉は1550年頃(天文末頃)以後この能島村上氏の当主となった。
永禄初め頃毛利氏と関係を持ち、1561年(永禄4年)大友氏の門司攻撃に際して来援し、今井・元長で大友氏船団を破る。
1567年(永禄10年)児島元太合戦や1568年(永禄11年)頃周防上関在番を経て、1569年(永禄12年)毛利方として大友氏と交戦、直後に大友氏の誘いに応じて毛利氏から離反し、元亀2年(1571)には小早川氏警固衆等に能島城を攻められる。
この戦い以後武吉が毛利氏に離反することはなく、1582年(天正10年)来島村上氏が織田方となった時も毛利氏方に留る。
1585年(天正13年)能島を離れ、竹原に移る。
1588年(天正16年)海賊禁止令後の時期には関銭徴収行為が秀吉の怒りをかい、瀬戸内海から追放される。 彼の死後、息子景親が毛利藩舟手組組頭となる。
村上元吉(もとよし)
生年不詳~1600年(?~慶長5年)
能島村上氏の六代目当主で武吉の息子。
父武吉と行動をともにし、1576年(天正4年)木津川沖海戦に参加。
1600年(慶長5年)毛利氏の警固衆として伊予の東軍方・加藤嘉明領に侵入するが、戦死する。(三津刈屋口の戦い)
来島村上水軍の海将
村上通康(みちやす)
生年不詳~1567年(永禄10年)
来島村上氏の四代目当主。
来島村上氏も能島村上氏と同様の海賊衆であり、伊予河野氏の家臣であった。伊予来島を本拠として安芸(広島)能美島などへも勢力をのばしていた。
通康は1541年(天文10年)大内氏の芸予諸島方面侵攻に対抗して大三島周辺で戦闘を行っている。
大内義隆の死後、1556年(弘治2年)以後は毛利氏を支援し、1557年周防(山口)須須方の戦いに参加している。この時の通康の協力は、毛利元就にとって周防・長門制圧そして瀬戸内海支配に大きな意味をもっていたと思われ、通康死後の毛利氏の伊予出兵は来島氏への「恩送り」と称して行われている。
1561年(永禄4年)大友氏の門司攻撃に際して毛利氏警固衆とともに来援。 今井・元長で大友氏の船団を破っている。 1565年大友氏の伊予侵攻に対して河野氏方として戦闘に加わる。
村上通総(みちふさ)
生年不詳~1597年(?~慶長2年)
来島村上氏の五代目当主で通康の息子。
1582年(天正10年)織田方となり、毛利氏の攻撃を受ける。
毛利氏と豊臣秀吉の和睦後来島に帰還。
1586年(天正14年)来島から風早郡鹿島城に移る。
1587年(天正15年)九州侵攻・天正18年(1590年)関東侵攻に秀吉の舟手として参加。
朝鮮侵略にも参加する。
1597年(慶長2年)朝鮮半島水営浦で戦死。
子の康親は関ヶ原の戦いで東軍に属し、1599年(慶長6年)、豊後森に移封される。
因島村上水軍の海将
村上吉充(よしみつ)
生没年不詳
因島村上氏の六代目当主。
因島村上氏は能島・来島村上氏と並ぶ瀬戸内海の海賊衆。
15世紀に伊予から備後(広島県)因島に移って以後、備後守護山名氏や大内氏などの守護大名層と関係を結ぶ。
1556年(弘治2年)前後から毛利・小早川氏の警固衆と行動をともにし、1561年(永禄4年)には豊前方面に出兵。1574年(天正2年)元太攻撃に出兵。1576年木津川沖海戦に参加。
1582年に来島氏が織田方となった時も毛利方に残る。









