水軍

村上水軍「日本最大の海賊王」

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三島村上水軍

村上水軍とは伊予国の守護河野氏の支配化の水師で、瀬戸内海の因島、能島、来島を拠点に活躍した海上の武装集団です。河野水軍支配下の忽那・今岡・得居・能島・来島・因島の六氏の水師の中で、能島・来島・因島の三氏は三島村上氏と呼ばれ、三家合わせてその数は790余騎ともっとも勢力が強大でした。

能島(のしま)村上水軍

能島衆ともいう。
中世後期に瀬戸内海の伊予国能島(野島・大島)を拠点に活躍した武装集団。
毛利支配下の水軍として、織田・豊臣両氏と対立する。
豊臣方に下った来島村上氏を許すことができず、執拗に攻撃し瀬戸内海より来島村上氏を追放する。
しかしながら、織田信長死去のあと、豊臣家と毛利家の両家で和睦がもたれたため立場が一転し、とくに秀吉に嫌われた能島村上氏は"海賊禁止令"に抵触したと罪をきせられる。 小早川隆景の懇願で処刑だけは免れるが、逆に瀬戸内海より追放される。

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来島(くるしま)村上水軍

室町時代は伊予守護河野氏の重臣で、戦国期には毛利氏の水軍として働く。
五代目棟梁通総(みちふさ)のとき来島氏を称し、河野氏を離反、豊臣秀吉の水軍に編成され、伊予国二郡のうち1万4000石を安堵された。
通総の嫡子康親は関ヶ原の戦で東軍に降り、1601年(慶長6年)豊後国森に転封、通春のとき久留島氏と改めた。以後代々森藩主。
明治維新後は子爵となる。

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因島(いんのしま)村上水軍

広島県東南部に位置する因島を拠点とする。
豊臣秀吉と対立し能島村上氏は瀬戸内海から追放されるが、因島村上氏は小早川隆景に属し、毛利氏の船手組番頭としてその後も勢力を維持する。

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河野氏

伊予国の豪族。
孝霊天皇の孫小千御子(おちのみこ)から出たといい、古くは越智郡(現今治市)を本拠として越智氏を称した。 小千国造ついで越智郡司となり、平安中期には伊予国司に任じられ、用忠は藤原純友の追討に功があった。
平安末期には親清が河野郷(旧北条市)に住して河野氏を名のる。孫の通信は源平内乱に源氏方として活躍。
承久の乱のとき一族は二分したが、通信の子通久が幕府方となり、所領を維持する。元寇では通有が志賀島の戦で活躍。
室町時代、伊予国守護ともなったが、一族内の対立により衰退。
1585年(天正13年)豊臣秀吉の四国攻めによって通直は所領を没収されまもなく病没、宗家は滅んだ。

三島村上氏が他の戦国大名と大きく異なる点は、農村を生活基盤とする家臣以外に、月給制の海戦プロともいうべき船舶専従の兵員を多数扶養していたことで、とくに能島村上氏は34騎の海賊頭を率いていました。

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村上水軍の興亡

彼らは海賊城とよばれる独特の城郭を営み、海上の要衝に関所を構えて関銭を徴収したが、この関銭が彼らのもっとも大きな収入源となっていました。

宣教師ルイス・フロイスの見た能島村上氏

日本の海賊の最大なる者がいる島々の所に着いた。 海賊は同所に大なる城と多数の部下、領地および絶えず出動する船を有し能島殿と称してはなはだ有力である。 それで他の沿岸の諸国の地では、彼らを恐れて毎年年貢を納めている。
わがパードレ(司祭)およびイルマン(修道士)らは絶えずこの海を航海し、彼らの手に落ちる危険があったゆえ、パードレは彼より安全通交証を得て、わが全員が、その部下に捕えられても、掠奪加害させられざるようせんことを望んだ。
それでも今回豊後に向って進んだ時、その城より一、ニレグワの所に着いて日本人イルマン一人を遣わして彼を訪問せしめ、その好意と右に述べた特権を求めさせた。
彼はイルマンを大いに歓待・饗応し、その求めたところについては、パードレたちは天下の君関白殿の庇護を受くるゆえ、彼の好意を要せぬと言ったが、イルマンはこれに答えて、パードレの願うところと許すべき理由を述べたところ、彼はその紋章と署名のある絹の旗を与え、疑わしい船に出合ったときこれを示すように伝えた。
これは彼の与え得る最大の好意で、各地方には彼を主君と認めざる海賊も多数あるが、航海者が最も恐れるのはかれである。

しかし、海戦や海上輸送では抜群の能力を発揮し、提携する大名の信託に応えることによって、さまざまな特権や領地を手中にしてゆきます。山名氏・大内氏ともつながり、対外貿易も行っています。

その戦略的な価値のゆえに重宝され、有力諸大名と結んで勢力を拡大しますが、利益優先を目的とする水軍は、農村を基盤とする諸大名から卑しき者とみなされ、諸大名から不興や怒りを買うこともしばしばあったと云います。

1555年(弘治元年)の厳島合戦で、毛利方についた村上氏は、その勢力を磐石としますが、毛利氏が織田信長と対立するようになると、三家もその渦中に巻き込まれてゆくこととなります。毛利氏支配下の水軍として、石山本願寺への兵糧輸送を行うなど力を発揮しますが、やがて来島村上氏が豊臣秀吉の勢力下に入るに及んで、三家は分裂し、激しく対立しあうこととなります。

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海賊禁止令

やがて豊臣秀吉の天下となり、1588年(天正16年)の海上賊船禁止令により、その組織は解体してゆきます。そして、徳川幕府の鎖国令により、大型建造船を所有することが禁止され、諸大名も水軍を用いることがなくなり、水軍は完全にその姿を消してしまいます。

海上賊船禁止令

一、諸国海上において賊船の儀、堅く停止の処、今度、備後伊予領国の間、伊津喜嶋にて、盗船仕の族、これあるの由、聞食され曲事に恩食事

一、国々船頭猟師、いづれも舟つかひ候もの、その所の地頭代官として、速に相改、向後、聊以て海賊仕るまじき由、誓紙申付、連判をさせ、其国主とりあつめ上げ申すべき事

一、自今以後、給人領主油断致し、海賊の輩これあるにおいては、御成敗を加えられ、曲事の在所、知行以下末代召上らるべき事、右条々堅く申付くべし、若違背の族これあるにおいては、忽厳科すべき者也

天正十六年七月八日   秀吉

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