水軍

水軍学 - 海賊流兵法

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歴史に水軍あり

軍船

応仁2年政府から明国へ使節を送った時に、四国、九州、中国に在る海賊に海上の警護を命じ、明国から我国に使者が来る時も海賊をして之を京都まで導き警護の任に當てしめている。

またその時分の書物に「元弘建武の乱後困窮の賊士、大明朝鮮に押入乱暴に及びし故、彼土の使来て是を訴う、管領細川賴之和漢の親和を乱れる事を恐れ、能島、村上を海賊の棟梁たることに定む」と書いてある。
公然政府から海賊の首領を任命して之れに海岸の警護を命じたのもである。

而して南北朝時代から群雄割拠時代までは最も水軍の流行の時で、水戦がしばしばあった。
南北朝時代から順序に述べると、

  • 懐良親王は薩摩の合戦の時にその近辺の海賊を部下に附け、水軍を以て勝を制し、
  • 北畠親房は伊勢附近の海賊を用いて関東の官軍を助ける
  • 足利尊氏は九州から攻めて来る時に数千艘の海賊を用いる

その後になって、

  • 細川勝元は水軍500余艘を以て山名宗全の水軍1700余艘と大物浦に戦い、
  • 武田信玄は水軍を編制して徳川、北條両家を困しめ、
  • 里見、北條両家は互に水軍を率いて相模灘に相撃ち、
  • 毛利、陶の両家は各水軍500艘を出して厳島に戦い、
  • 織田信長は水軍を出して朝倉氏を撃ち、
  • 毛利輝元は水軍を以て豊臣秀吉に當り、
  • 武田勝頼、北條氏直は水軍を以て駿河海に相攻め、
  • 豊臣秀吉は水軍を用いて北條及び四国を制し、
  • 徳川家康が大坂に這入するにも水軍を備えた

これらは凡ていわゆる海賊を用いたのだ。

かの如く水軍の使用が盛んであるから、これまで水軍を屑しとせぬ風習が武士の間に行われて居ったの一愛して、卓識の士は苦心経営して水戦の技術、軍船の造方、陣形の得失、航路視察、天候風向等を研究するようになり、後には銘々一家の見を立て、一流の戦術を案出し、徳川氏の政権を握るの後まで漸々改良して軍書の世に傳わりしものも多数にある。