海賊戦法の研究
秋山真之将軍が日本古代の海賊戦法、伊予の水軍を研究した事は隠れもない事実である。此の水軍の知識が、将軍によって我海軍戦略に如何に多く盛り込まれたかは今改めていうまでもない。
将軍の水軍研究に関して海軍中将小笠原長生子爵が次の如く語っている。
凡て如何なる事物も観察する人の知識の程度に依り夫々異る解釈を以て其入の概念に入るものである。日蓮上人の遺文の中に「法華経の文字は一であるが之を読む者に依て佛種純熟せる者には六萬九千三百八十四字の一々文字が生身の佛として見える」という語がある。 洵に味うべき事であって如何に法華経が名経であっても受持する人の佛種にして純熟していなかったなら到底之を活ける佛陀として感得することは出来ないのである。
それについて思い出多き話がある。年月は正確に記憶していないが、何でも明治三十一二年頃の事だと思う。其時分秋山中将は大尉であったが、或時胃腸をひどく害されたので長与氏の胃腸病院に入院されて居った事がある。一日、余が見舞いに行くと、秋山大尉は「どうも寝て居ると退屈して困るが、何か面白い本はないか。有ったらば貸して呉れないか」というので、「何か捜して見よう」と約束して別れた。そこで帰ると直ぐに五六冊の書を取り纏めて大尉の許へ送った。
其中に「野島流海賊古法」という写本があった。此「野島流」の事に就て一言説明を加えて置くが、一体日本中古の水軍は吉野朝廷時代から戦国時代へかけて発達を遂げたもののように思われるが、十数種の流儀が出来ている。其中最も古い歴史を有しているのが海賊流である。これは北條氏の末路天下漸く乱れんとするに当り、豪放不覊の士部下を率い互に海賊と称し内海沿岸の各所に據り其勢力諸侯のようであったが、吉野朝の頃、伊予の豪傑村上義弘が緒海賊を征服して己の麾下に置き自ら其の大将軍となり水軍を組織し之を海賊流と称したるが如く思われる。野島流というのは此海賊流から分脈したのもである。即ち余が大尉に示した書は其写本であった。恰もそれから一週間程経て再び病院に大尉を訪れると、大尉は会心の笑を湛えて「実に有益な本だ。あれを活用しただけでも立派な戦術が出来る。自分も是非写して置きたいから暫く貸して貰いたい」という話であった。
大尉の此言を聞いても余も大に感ずる所があった。其当時余は日本中古の水軍に関して趣味を有していたので種々古書をも渉獵して見たのであるが、それは一種の好奇心に駆られたのに過ぎないので、日本の昔にもこんな水軍の戦術書があったのかという位で漫然読過したのみであった。
然るに大尉の如き卓見の士は、単に病褥の鬱を散ぜんとする漫読に於ても砂礫の中に宝石を発見する事を忘れず、此の如く埋もれたる古書の中から燦然たる戦術的価値を見出したのである。元より之は大尉の非凡なる戦術的天才が随時発露する一端と見るべきであるが、畢竟前説の所謂佛種が純熟していたればこそ経文を見て、生身の佛を感受するのと同様だと思われる。
大尉が非常に熱心なのを見て、余もそれならばというので、早速同じ古書である所の「海賊流」「三島流」「甲州流」「全流」等の書も送り届け、それ以来反って所有者たる余が大尉より種々の教訓や研究の結果を聞いたような次第である。
其当時大尉が特に会心に堪えない様子で「実に愉快じゃないか」といいながら余に示した水軍書中の沢山の語があったが、二三を挙げてみると、左の如きものであった。
- 全力を以て争う
- 散舟其志を一にすべし
- 舟を攻めずして人心を攻む
- 敵の気を奪う
要するに大尉が此等の兵書の最も尊重すべき点に就ての論結として言われたのは
- 水軍の根本主義とする所が常に我全力を挙げて敵の分力を撃破するに存する事
- 常に長蛇の陣を以て基本陣形となせる事(長蛇の陣というのは今日の縦陣を指すのである。何故に有利かといえば長蛇の陣は如何なる陣形にも変化し易く従って敵を包囲するに便利だと水軍書にある)
- 外来の戦術は物質上体形上には種々研究が積んでいるが、精神上の修練には欠くる所がある。日本中古の水軍に至っては即ち深く大将等の心得も論じている。
という以上三個の特長を捉えて推賞された。恐らくは此時こそ秋山大尉が本邦中古の水軍研究に興味を持たるるに至った一動機で、後年達成せる特有の光輝ある戦術は発芽したのであるまいかと考えられる。従って此逸事は秋山中将の伝記中逸すべからざる一項であると信ずる。予などには好奇心をそそるに過ぎなかった古書に新しい生命を賦与し、悉く自家薬籠中のものとして作戦の上に運用された中将の如きは、此の一事に徴するも真に得易からさる偉材であった。
胃腸病院入院が端なく秋山将軍に古代水軍研究の機会を与え、それが将軍の軍学、延ては我海軍の戦略に重大なる影響を与えたと思うと、偶然という事の発展がしばしば人生の上に面白い足跡を残すものだという事が今更の如く思われる。
此の秋山将軍が研究した古代水軍の戦法が日本海海戦の戦略に現れた事は我れ人ともに認むる所で、当の小笠原中将も別の機会に於てその事に言及している。
それらはやがて後節に重ねて叙べるであろうが、此処では秋山軍学の基礎として、古代の水軍研究もその重要なる一部分であったことを叙べて置くに止める。
出典: 伝記「秋山眞之」(兵学篇)より

