天佑と神助
日本海海戦終って、連合艦隊から大本営に海戦詳報が送られた。無論報告の責任者は東郷司令長官ではあるが、文案は秋山参謀の手に成った。これが有名な「天佑ト神助ニ依リ」の書出しで知られている名文である。
しかも此書出しの一句は、決して技巧的の文章の綾でもなければ、また戦捷者としての謙遜の辞句でもない。秋山参謀が衷心腸の底の底まで信じ切っている感懐と信念が総括的に文章の冒頭に於て現われたのである。
秋山将軍が神助に祈念したかに察せらるるのは、先の黄海海戦の項に記した通りである。それが今また日本海海戦の跡を見るに至って、更に天佑神助の歴々たるものあるを確信し、起筆の劈頭これを将軍大書せざるを得なかった将軍の気持ちは、今ここに鏡にかけて見るがようである。
尤も将軍がそう確信して其間些の疑心を抱く余地も隙もなかったのは、その晩年時代特に顕著となった将軍の宗教的信念が内的方面からして然かあらしむべく興って大いに力あった事は否定出来ないが、しかし是を鈍客観的に見て、日本海海戦が帝国海軍の実力のほかに天佑に恵まれていたと思われる節が今から思い合わせて数々あった。
一二の例を挙げて見れば、海戦の始まる以前、バルチック艦隊が対馬海峡を通るか津軽海峡に現われるか判断に迷っていた頃の話であるが、敵艦隊とてもさるもの、日本に近づくに随い、我が連合艦隊の眼を晦ます為めにそれ相当の策略をめぐらしていたもので、艦隊中のテレック、クーバン二隻の仮装巡洋艦を南支那海航行中から分派して、台湾沖から東京湾一帯の沿岸にかけて太平洋を游戈せしめ、日本商船の拿捕や艦影の出没によって、バ艦隊が津軽海峡を通過する如く見せかけ処に乗じて一挙対馬海峡を突破して浦塩に入ろうと企てたものであった。
敵艦隊に此の策謀のあった事は、戦後六月余りを閲してロシアで出版された戦記によって我が海軍が始めて知った事であった。
然るに敵にこれだけの策略があったにも拘らず、実際は派遣されたテレック、クーバン二艦の影を我が商船にしても沿岸地の漁民にしても誰一人として発見した者がなかった。無論商船の拿捕などはなかった。然らば此の重要使命を帯びた二艦は果して何処へ行ったのか、最後に南洋の方へ航行したらしいが、それが任務を果さなかったのは士気の関係もあるかも知れぬけれども、此方に取っては天佑というべく、また実際は多少日本近海に現われたらしいのだが、日本人一人遂にそれを発見せずに済んだというのは所謂る知らぬが仏で、結局これが我が作戦上大きな幸運であったといわねばならぬ。若し敵影を発見したとすれば、左なきだに少からず迷わされていた我連合艦隊はどんなに懊悩しなければならなかったろう。流石英断の東郷司令長官にしても、名作戦家の秋山参謀にしてもあれだけ落付いて自信ある行動は取れなかったかも知れぬと思われる。
これを思えば、今になって実に寒心させられる話で、敵二艦の寸影だに見なかったというのは確かに天佑と言って宜いのである。
第二には哨艦信濃丸が最初に敵艦隊を発見した時の話である。信濃丸は非常に遅い船である上に此の朝は霧が深く偵察任務は非常に困難であった。それにも拘らず此の濃霧の中で敵を発見し得たのは何であるかというと、敵の病院船の赤十字の信号燈が眼についたのである。
この病院船の信号燈が今思えば天佑だった。何故かというと、いくらそれが病院船にしても、やはり敵艦隊の付属船だ。艦隊と一緒に航行し、その親艦隊が日本艦隊の眼を掠めて浦塩に潜行しようというのだから、病院船たりとも明りを点じて行くという法はない。斯くの如きは正気では考えられない馬鹿々々しい程の非常識で、しかも何等親艦隊の注意も受けず平気でやって来たのだから不思議である。これなど全く我にとって天佑といわなければ何といおう。
ほんのこれらは二三の実例を挙げたに過ぎないが、ほかにも天佑の二字でなければ解釈出来ない事が沢山あった。以て天佑神助の一語があの際の報告文として、如何に事実に即した至言であったかが窺われる。
出典: 伝記「秋山眞之」(活躍篇【下】)より

