軍使秋山参謀
戦闘終って、敗残敵主力の降伏と共に我が秋山参謀は選ばれて軍使となり、降艦ニコライ一世に乗り込んで、敵将ネボガトフ少将と会見した。
日露海戦の正記たる海軍軍令部編纂「明治三十七年海戦史」は特別の場合でなければ個人の名を省き、殊に参謀の如き帷幄の士に至っては其功労如何に顕著なるものあっても、名の揚げられるような機会は滅多にないが、此際の軍使としての特別任務には初めて秋山参謀の名が明瞭に記され其処に判然と歴史的足跡を残している。
即ち同戦史公刊本には次のように書いてある。
是に於て第二戦隊は敵艦隊所在の方面に進航せしに9時30分頃(5月28日午前)始めて右舷艦首に敵艦隊を望見し尚ほ第四戦隊、第六戦隊の第五戦隊と共に敵と接触を保てるを認めたり、尋て第一戦隊も亦到り第一、第二戦隊は北方より敵の前路を第四戦隊以下は南方より其の退路を扼し漸次敵を圧迫し10時15分頃第一戦隊は約1万2千米突に接近せり、敵艦隊はネボガトフ司令官の旗艦「ニコライ一世」を先頭とし戦艦「アリヨール」、海防艦「アブラクシン」、同「セニャーウィン」之に続航し巡洋艦「イズムルード」は「ニコライ一世」の稍前方に在り依然として北東方に航進せしが「イズムルード」は忽にして針路を転じ独り東方に遁走せり、既にして同30分頃に至り第一、第二戦隊は約8千米突に迫り春日先づ砲火を開き他の緒艦も亦之に踵ぎて砲撃を開始せしに敵は毫も応戦せざるのみならず俄に其の軍艦旗を半降し萬国船舶信号を以て降伏の意を表せり、仍て東郷連合艦隊司令長官は之を容れて発砲を止め我が各戦隊をして竹島の南南西約18海里の地点に於て降伏敵艦隊を包囲せしめ同53分受降の為め連合艦隊参謀海軍中佐秋山真之をして三笠分隊長海軍大尉山本信次郎と共に「ニコライ一世」に赴き敵の司令官ネボガトフ少将と会見せしめ且速に敵将を伴いて帰艦すべきを命ぜり、仍て秋山参謀及び山本大尉は水雷艇雉に乗じて「ニコライ一世」に到り敵の参謀に導かれて将官室に入るネボガトフ少将は愨懃に之を迎え座定るや秋山参謀は同少将に向い山本大尉の通訳を以て東郷連合艦隊司令長官の意を伝えて曰く、東郷大将は貴下と共に爰に惨烈なる海戦の終結を告げたるを慶し名誉の降伏として貴艦隊を待ち貴下等をして其の儘帯剣せしめんと欲す且大将は降伏委細の条件を協定するが為め速に貴下の我が三笠に至らんことを希望せり、又巳に降伏の上は貴艦隊の艦船兵器等は一切現状を維持すべきことを直に麾下に厳達せられたしと、ネボガトフ少将は之に対し承諾の旨を答え尚ほ此の意志を各艦に伝うるが為め暫時の猶予を請い約30分にして之を了り同少将は幕僚と共に礼服に改め上甲板に出て総員を集めて降伏の巳むなきに至りし所以を懇諭し且曰く、予は年齢既に六旬なる老体固より惜むに足らず唯惜む所は諸子に在り緒子は猶ほ春秋に富む冀はくば一時の恥を忍んで将来祖国の海軍を復興し以て君国に報ずる所あれ降伏の責は予之を一身に負わんと、言々尽く悲痛にして聲涙共に下り将士皆粛然として之を聴けり、訓示終るや同少将及び幕僚一同は我が水雷艇に乗じて午後1時37分三笠に来艦し東郷司令長官は之を将官室に引見し八代浅間艦長露語を以て通訳し軍艦は現状の儘我が軍に引渡すこと乗員は総て俘虜となすこと士官以上は帯剣を許可すること等を協定し了りて東郷司令長官は正式に敵の降伏を受け以後我が命令に服従すべきを命じ両将互に杯を挙げて悲惨なる戦闘の終局を慶せり。
出典: 伝記「秋山眞之」(活躍篇【下】)より

