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秋山真之と日本海海戦

将軍の偉勲

日本海海戦の顛末は本編末尾に付した将軍の筆になる報告文で明かだから本分では改めて説かない。が、此の海戦で斯く空前絶後の大勝を博し得た主因は、開戦劈頭に於て東郷大将の勇断よくあの大胆不敵の戦術を敢行した点にある事は十目の認める所であった

由来丁字戦法は殆んど海軍戦術の常識で、我が全砲火を以て敵の先頭を激圧するの戦法は海戦の定石といっても宜しいのであるが、しかしそれも時と場合によりけりであの日は濛気が海面を掩うて遠望に適しなかったので我艦隊が敵を見認した時には、敵艦隊は既に近距離に迫って居た。

斯かる近距離の場合敵の直前に旋回する事は非常の冒険であって、此の場合に限り定石が定石にならないのであるが、それにも拘らず大将はあの猛断を敢てして戦機を制したのであった。しかも之は大将の驚く可き胆勇の現れである事はいうまでもないが、その一面に於て、秋山参謀の重大なる建策のあった事も看過する事は出来ない。これ実に日本海海戦が東郷大将の偉勲であると同時に秋山参謀の殊勲ででもある所以である。此の点に関し「陸海軍人物史論」は左の如く這個の消息を伝えている。(前略)

而して更に吾人が秋山の殊勲として数えんと欲するは彼我主力艦隊の接戦当初に於ける我艦隊の断乎たる行動なり。当日東郷長官は刻々に接受する報告に基き、敵艦隊を沖ノ島付近に撃滅せんとの戦策を立つることを得たるも、此日濛気深くして展望五六海里に過ぎず、且西南西の風強吹して波高かりしを以て、各水雷艇隊をして三浦湾に避泊せしめ駆逐隊以上のみを率いて正午沖ノ島付近に到着せるが未だ敵影を見ざるを以て適宜針路を変更して策敵中、午後一時三十九分遥かに南西に方りて敵艦隊を発見せり。

茲に於てか東郷長官は直ちに戦闘開始を令し、先づ敵の左翼列(第二戦艦隊)の先頭より撃破せんと欲し、自ら第一、第二両戦隊を率いて北西微西に変針し、参謀少将加藤友三郎、先任参謀中佐秋山真之以下を従えて三笠の前部最上艦橋に立ち、双眼鏡を執りて諦視するに、敵は我三笠を西微西に距る約七海里の地点にありて、其右翼列の先頭にはボロヂノ型の敵艦四隻より成る一隊を置き、左翼列の先頭には戦艦オスラビヤ、シソイ、ウエリイキイ、ナワリン、装甲巡洋艦ナヒイモフの四隻より成る一隊を置き、戦艦ニコライ一世、海防艦セニヤアウイン、アブラクシン、ウシャコフの一隊之に次ぎ、巡洋艦ジエムチウグ、イズムルウドは両列の中間に介在して前方を警戒し、尚お前後濛気の中にオレエグ、アウロオラ等の巡洋艦隊、ドンスコイ、モノマアフの二艦及特務艦船等数海里に亙り蜿蜒続航し来るを見る。東郷長官即ち西に変針を命じ麾下に訓令して曰く「皇国の興廃此一戦にあり各員一層奮励努力せよ」と、時正に午後一時五十五分也。

午後二時二分、我主力艦隊は針路を南西微南に変じて敵と反航するものの如くなりしが同五分に至り俄然針路を東北東に変じ、逐次回頭を試みて以て敵の先頭を斜に圧迫せんとす。敵前八千米突に於ける此大胆なる行動は、全く敵の意表に出で、少時は茫然自失したるものの如し。蓋し敵前に於ける逐次回頭は敵をして回頭点に集弾せしめ、逐次味方の各艦を損傷せしむる虞れあるを以て、戦術上最も忌むべき行動に属す。然るに我東郷長官断然此行動に出でたり。当事敵の旗艦スワロフの艦橋にありて此光景を見たるロジェストウエンスキーの幕僚が掌を打って「我勝てり、東郷狂せり」と雀躍せしも無理ならず。

然れども我東郷長官、秋山参謀等の意図は敵の幕僚が之を測定し得しよりも更に深遠にして且雄大の意義を有せるものなりき。蓋し秋山謂えらく、敵前に於ける逐次回頭は仮令一時我艦隊を不利の情勢に陥らしむるも、数分時の難局をだに凌がば、所謂丁字戦法の理法により先頭を圧迫し、其嚮導艦に我全砲火を集中し得て、逐次其後続艦を撃破し、最も有利に迅速に且つ最も決勝的に敵を圧服し得べし、加之敵と反航して戦機を逸し容易に之を回復し得ざりし苦き経験は、我れ之を八月十日の海戦に於て嘗めたり、従って如何なる場合にありても断じて反航戦を避ざる可からず。區々たる一時の不利の如きはまた顧みる所に非ざる也と。而して此猛断は実に当日の戦勢を決せる動力なりき。

秋山は此戦後幾もなく要務を帯びて上京し、戦況を講演せるが、其際此戦法を以て英将ネルソンのトラファルガーに於る戦法に比較論じ評して曰く、東郷大将はネルソンと正反対の戦法を以てネルソン以上の戦績を挙げたりと、何くんぞ知らんこれ英雄人を欺く言なるのみ。ネルソンがトラファルガーに於て執りたる戦法は形こそ異なれ、其精神に於て毫も日本海海戦に於ける東郷大将の戦法と相違する所非ざる也。ネルソンが当事仏西連合艦隊の単縦陣に対して、一時我先頭艦に砲火の集中せらるる不利を隠忍しつつ二列縦陣を作り断然側面より其艦列を突破し以て決勝の地歩を占むるの戦策に出でしと、東郷大将が一時の不利を忍びつつ逐次回頭を為し、敵の先頭を圧迫し以て決勝的の地歩を占めしと、何ぞ其心的戦術の相似たうの甚だしきや。吾人は寧ろトラファルガーに於けるネルソンの戦術を偉とすると同一の意味に於て、我東郷大将の日本海に於ける戦法を讃美せんと欲するもの也。而してこれ軈て我名参謀秋山の偉勲ならざる可からず。

出典: 伝記「秋山眞之」(活躍篇【下】)より