戦略上の最難点
秋山将軍は前記黄海海戦の回想に於て、此の海戦を以て戦略上日露海戦を通じて最も有意義の大収穫であったといっている。
それは当事者としてまた作戦家として尤もの言葉に違いはないが、しかし何といっても将軍の最も華々しい武勲が日本海海戦にある事は、余りに世間に知られ過ぎている。
そこで日本海海戦に於て東郷司令長官を初め艦隊作戦の要衝に当れる秋山参謀をして戦略上最も頭を悩ました問題は何であったかというと、これは今更事新しく説明するまでもなく将に来らんとするバルチック艦隊の通路が対馬海峡であるか津軽海峡であるかの此の判断であった。
日露海戦史を研究する人々には当時の東郷艦隊の位置という事が戦略上の重要問題になる。バルチック艦隊が丁度待って居た東郷艦隊の鼻の先に現われたから彼の曠古の大戦が演ぜられた。若し対馬に来ずして津軽を通過したら、どうなったろう。どうして対馬に来ることが判ったか、何に拠って判断したか、と問題になるのは当然である。戦争直後この問題は各方面で議論された。米海軍のマハン大佐の如きは日本艦隊は澎湖島附近に占位すべきであると新聞に発表したと伝えられて居た。東郷艦隊は敵がシンガポール附近に来る迄は鎮海湾に於て専ら訓練に従事して居たが、其頃から敵が津軽方面に向う場合をも予想して哨戒の計画は樹てられてあった。愈々敵がシナ海に入り続いて台湾南方通過の情報もあった後に、今後或る時期までは対馬海峡方面に居るが、それから先は臨機津軽方面に向うと謂う先の哨戒計画よりも進んだ計画が樹てられた。世間では往々この万一の場合に拠する二段の備えを樹てた話を誤解して連合艦隊司令部は敵は津軽に来るものと判断したと決めてしまい、これを彼れ此れ謂う説がないでもない、甚だしいのは司令部の計画を止める提案をした人があるなどの咄も聴くが、是等は総て誤聞であって、戦略研究がその度を越え詮議し過ぎて却って訛伝となったのである。成程敵が対馬に来たからこそ彼の大会戦が出来たには相違なきも、さればとて津軽に対する準備的考慮が議論の種になる理由はない。若しその考慮をも非難し得るものとせば総て二段三段の備は出来ない訳で七段備の如きは拙中の拙と謂わねばならぬ。
で、最後に東郷司令長官の明晰よく鎮海湾に艦隊を集中して居たが、その一方津軽通過の場合を決して疎漏にしたのでなく、是れに対しても充分の作戦を凝らしていた。事聊か軍機に亙るから明らさには書けないが、所謂る「○○命令」の秘策のもとに、敵艦隊津軽に廻るの通信あり次第鎮海湾の艦隊は猛然活動を起し、全速力を以て敵艦隊迎撃の途に向う手筈はちゃんと出来ていた。また戦務の上に於ても手配は遺漏なく行き渡り、沿海の要所要所に炭水弾薬の準備も出来て万全を期してあった。
そういう次第であるから、これを将軍の作戦に就てのみいえば、それは決して投機的でなく、何処までも科学的組織的であったのだ。
序でながら、今先に「一挙撃滅」の語を用いたが、此の「一挙撃滅」の一語こそは、常日頃将軍が口癖のように言っていた常套語であった。実際これは単に口癖であったばかりでなく、将軍の作戦を樹てるや、いつも此の「一挙撃滅」を以て標準としていたもので、以てその気宇の壮大、雄心勃々として熱火の如く燃えていたことが推測されるのである。而してそれが痛快至極にも始めて実現されたのが此日本海海戦であった。
出典: 伝記「秋山眞之」(活躍篇【下】)より

